設立理念

~きちんと本にかじりつく子を育てたい
 文章の書ける子どもを育てたい~

本を読むこと、文を書くこと

この二つさえ出来るようになれば、極端な話、あとは放っておいても、必要な時にひとりで学習していけるのだから……。

しかし、この二つのことは、小さい時からの習慣作りが大切であり、そうする為にはかなりの「時間」「労力」「工夫」「環境」が必要になります。国語専科教室では、その習慣作りをしてあげたいと考えています。

国語の意味

国語として考えるのなら、漢字や文法も必要です。ですが、結局、本が読め、文が書けなければ、何の意味もないのです。昨今の優等生と言われる子ども達の中には「本が読めない」「文が書けない」子どもがあまりにも多いのです。それでは、国語の勉強の意味があるのでしょうか? そんな子ども達は、学校や塾の犠牲者とは言えませんか?

自分の力で考える

読み書きが出来ることが、無条件に良いものだとは言えません。それがどんなに良く出来たとしても、例えば「官僚的作文」の様に、現実と自分の思考を伴わないもの、つまり「心が全くない作文」が出来る可能性もあるのです。自分の頭、自分の心で考えない限り、読むことも、書くことも本当は出来ないのです。読み書きの訓練は、最終的には「自分の力で考えていくこと」に結びついてくるのです。しかし、受験の為の勉強では「自分の力で考えること」には結びつきません。今こそ、個性やオリジナリティを大切にし、思考する習慣作りが大切なのです。

創造力=想像力

今の学校や塾は、本、そして読書、書くこと、自分の力で考えることをきちんと教えているのでしょうか?

答えはNOです。子ども達の気持ちを無視し、個性を無視した指導は、子ども達をバカにしている教育としか思えません。それでいて、塾や文部省の宣伝文句には、きまって「思考力」とか「創造力」なんて言葉がでてきます。多人数クラスで、「思考力」とか「創造力」とは無縁な教師が教壇に立って、果たして、それらが養えるでしょうか?

「創造力」の源は「想像力」にあり、「思考力」とは「読むこと」「書くこと」によってしか養われないものです。えっ? 学校によっては朝の読書があるじゃないかって? 読書はそこで期待されている精神安定剤のようなものでは決してないのです。むしろ逆の働きすらするかもしれません。たとえぱ、なぜ、それがたった15分ぐらいであって、一日中ではないのでしょうか?答えは簡単です。それでは教師がひまを持て余し、「教えなければならない」という義務を果たせないからです。

本当はそれでこそ教師が成り立つということを、自らが本を読まなくなってしまっている教師たちには分からなくなってしまっているのでしょう。

今の子どもに本当に必要なこととは

とりわけ、既存の進学塾は、私にはまるで「ブロイラー養鶏所」のように見えます。その檻には、自然から隔離され、発達過程も個性も無視され、もっぱら人工飼料や成長ホルモンに匹敵するようなものを、カリュキュラムという名のベルトコンベアで一方的に注入される「勉強マシン」達がひしめいているのです。あるいは、塾とは、あのエンデの【モモ】に出てくる時間貯蓄銀行ならぬ「偏差値貯蓄銀行」なのでしょうか?知識を貯蓄することで虚妄の安心を得ているようです。

しかし、真実も現実も伴わない、受験でのみ通用する知識なんて、まるで偽札のようなものであり、実社会では何一つ役には立たないのです。有名校に入学し、有名な会社に就職できれば幸福という神話がいまだに信じられているなんてことが、私には信じられません。そして、とりわけ、塾における高偏差値とは、長じて様々な成人病ならぬモラル破綻と社会混乱をもたらす生活習慣病に近いことではないでしょうか? 現在では、それが最近の10代の優等生が引き起こす凶悪犯罪の原因になっていることに、そろそろ皆気づきだしています。そして、そんな偏差値のみの優等生を雇うと、かえって自分が危なくなるということを、日本の会社も社会も気づいてきているというのに、それとこれとが結びつかないのが、目の色を変えて進学塾に通わせる母親達の共通した「近視眼的な強迫症」なのです。

*この塾は、それらの近視眼的な御父母をお客にし、子どもを受験マシンにしたてあげて、結構なご商売をする進学塾と同じものではない。(工藤順一)



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