方法と実践

とにかく自分のエンジンをかける=能動的になることからです。

そのために、楽しい文章を「たくさん書かせ」「たくさん読ませる」という方法をとります。ただし、これをやみくもにさせるというのではありません。また、やみくもにできるものでもありません。ここに、決して簡単ではない、次のような方法を採用するのです。これらの方法はたんに抽象的なお題目やたてまえとしてあるのではなく、豊富で具体的な教材と、研究と、実践経験を伴って、はじめて実現できるものであると確信しています。

「できるかぎり」

~コボちゃん作文~

「コボちゃん作文」のよさは、難しいことを言わなくても、ただ「これを言葉で説明してごらん」とさえ指示すれば、どんな子どもでも、たいていの場合、喜んでのってくれ、あのやっかいな作文練習をこなしてくれるというところにあるでしょう。しかも、作文の初心者から相当のレベルのところまで練習できます。

ただし、これがスムースにできるのは、通常の子どもであれば小学校の中学年くらいからです。低学年では、やはりそれなりの別メニュー、ないしは工夫された指導が必要です。例えば、低学年であれば、1コマずつ描写させたり、順番をならべかえさせたりする。あるいは、はじめに口頭で言わせたり、一緒に考えたりするなどの工夫です。

低学年では五味太郎の傑作絵本「言葉図鑑」を利用します。

~慣れること、考えること~

文章には内容と形式という二面があり、文章作成練習のためには、慣れと考えることが必要になります。「コボちゃん作文」は、その内容面と慣れの点をサポートし、「アウトライン・プロセス原稿用紙」は形式を考える面をサポートすると考えればよいでしょう。

~新しい教育手法~

読むこと、書くことは本来であれば、今までの文化の中でそれを養うような仕組み、装置、あるいは仕掛けがありました。例えば、読書という習慣が良い例であり、日記や手紙書きがそうでした。おもしろい、おもしろいと思いながら読んでいるうちに、読む力がついていたし、悩みながら何とか自分の気持ちを相手に伝えようとして書いているうちに書く力はついていたのです。ところが、読書にしろ、手紙や日記書きにしろ、今の子どもたちはほとんどしなくなり、まして習慣化されなくなってしまったのです。そのような文化的環境がなくなってしまったといっても過言ではないでしょう。

それにとって変わってきたのが、マンガでありテレビなどの映像の文化です。これもまた、実は本と同じくメディアとして考えられるものです。そして最近では、映像、文字、音などが一体になったマルチメディアとしてのコンピューターが社会に登場し急速な勢いで主流となりつつあります。

いままでにはない新しい教育手法の登場が必要とされているのです。それがコボちゃん作文です。またビデオ作文です。

プロセス

~コンプレックス~

書くことにしろ、読むことにしろ、これは器楽演奏とか体育の実技のようなもので、あくまでも練習によってのみ向上するものです。ただし、そこにはいくつかのプロセスがあるわけで、それをおろそかにしたり、無理なステップアップをすると、必ずつまづくし、悪くすると取り返しのつかない苦手意識やコンプレックスを生み出してしまいがちです。

~自分の力を見定める~

ここでいうプロセスには2種類あります。ひとつは「書くこと」「読むこと」それ自体が持っているプロセスで、これは習得済みの大人であれば、すでに無意識に身体化されているため、できない人を見ても、どうしてそれができないか分からないようなものです。ふたつ目は習熟していく段階としてのプロセスで、いわゆる初級、中級、上級というような段階です。それらのいくつかのプロセスをきちんと踏ませることで、どんな子どもでも読み書きはでき、しかも上達するようになります。

誰しもそうですが、現状=現在の力でできることからしか出発出来ません。これは受験生に多くある例ですが、自分の力とはかけ離れたことをやったり、やらされたりしていて「できない、できない」と悩んでいるケースです。特に国語の問題演習はほとんどが入試問題そのものを使っていますから、本番入試と同じくらい難しいのです。

上達のコツというのは、まず自分の力を見定めることからです。そして、その段階を十分にやることからです。それ以外にはありません。

よみかき

~進展~

コボちゃん作文をやっているとはっきりと分かるのですが、人は読めたものしか書けません。逆に書いているものを見るとその人が何をそこに読んだかもはっきりと分かります。ですから、読みの水準をあげないと、書くことの水準もあがりません。また、きちんと丁寧に書くことで、きちんと丁寧に読むことも学んでいけるのです。

このように、読み書きというのは、実は頭の中で意味を作っていく作業だと考えれば、同じものなのです。このことは、ことばの習得期にはとりわけ強調されなければならないことです。この時期には、読める=理解できる語彙と、書ける=使える語彙には、一般的にいっても確かに差があるのは事実です。それゆえに意識的に読める語彙を増やしていくことが課題であり、それを使える語彙に転換していくことが書く作業になってきます。

通常の作文教室でも、確かに書けるようにはなるとは思いますが、それのみでは、読みにおいての語彙の習得と精神的な成長が期待できないため、深い意味での書くことの進展は無理なようです。

経営を優先させない

~正しい選択とは?~

現在の学校の体制で、もしも、1人の子どもが、あることが決定的にできないということが判明した場合、その面倒を誰が見るのでしょうか? それは大手の進学塾でもそうです。だれも責任もとらないし面倒も見ません。あくまでもその子どもの能力の問題にされてしまうでしょう。そのような顔のない、責任の主体のないところに平気でお金を払って子どもを放り込む親の気持ちが私には分かりません。一方は義務教育で仕方がないのですが、大手の進学塾はそうではありません。義務教育にはない競争という刺激を求めて進学塾に行くのは理解できますが、競争の勝者とはつねに少数です。敗者もまた喜んで行っているというところが分かりません。

~親心~

進学塾で、いわゆる「お客さん」とか「月謝の運び屋さん」とすら呼ばれつつ、それでも楽しいと塾に通う生徒さんがあとをたちません。でも、そこで楽しいのは、落語のように面白いだけの授業だけなのです。本当に興味をかきたてたり、自分で考えることからは無縁です。そして、通わせる親御さんも私立志向という「マインド・コントロール」からそうさせてしまう場合が圧倒的に多いと思います。あるいは、それは、もっと皮肉に考えるなら、子ども時代から、敗者であることに慣れさすという親心なのでしょうか。

~本当のことを大切にします~

この教室は、それらのものから無縁でありたいと思います。連絡帳を一人ずつ用意して、常に親御さんとご連絡を取り、だめならだめ、どうして欲しいか、本音で語り合っていきたいし、そのようにしています。つまり、何がより大切なものであり、何が価値であるのかを優先したいのです。この塾は規模の拡大とか経営を優先してはおりません。



Copyright © 工藤順一 国語専科教室 2017 | base design criated by Ani World.