作文独立教科宣言

「作文」はそれのみで独立した一教科にするべき重要科目です

作文教育の現状

大きく変貌しつつある世界の「未来」を生きなければならない子どもたちのことを考える時、今までのようなひからびた知識の暗記一辺倒の学力観は大 幅かつ早急に変更を迫られているはずです。しかるに、教育界でも塾業界でも、それに対する具体的な方策は何ひとつなされていません。

たとえば、日本の国語教育は漢字習得の負担が大きく、ほとんどの学校国語の時間がこれに費やされてしまいます。何よりも大切なはずの作文教育は、 書けることが前提になってしまい、授業では何も教えられないまま親の代筆した感想文の提出ということでごまかされてしまっています。

その結果、ないがしろにされ続けてきた「作文」という言葉が現実社会でどのように使われているかというと、ほとんどの場合、「官僚的作文=現実と 乖離したつじつま合わせの嘘、あるいは言質を取られないための言い逃れ」のような蔑称として使用されています。そして、この国の元首相すら官僚の書いた作 文をホッチキスで止めたものを棒読みしている。日本はますます二流国・三流国になりつつあります。

ですから、従来の意味での作文など、書けなくても、書かなくてもよいのです。それはあまりにも長い間に渡って、間違った国語教育の咲かせた徒花の ようなものでしかありません。それができたところで実社会では何の役にもたたない代物、かえって軽蔑されてしまうような代物なのですから。

本来の作文教育とは

未来の教育を考える時、本来作文というのは、独立して学ぶべき一教科に加えてもよいくらい重要な科目です。もちろん、ここで言う「作文」という言 葉は、これまでの学校作文のような蔑称としての意味ではありません。いくつかの段階を通して、「言葉で考える力」を養う強力なパワーを持つ教科なのです。 たとえるなら、生きるためのエンジンを自分の中に作る教科とも言えるでしょう。

エンジンがついていない車を走らすくらい無駄な労力のかかることはありません。あらゆる教科の学習は言葉で考えるというエンジンがついていることが前提であり、その上で初めて学習成果が出てきます。

現代は、サッカー少年の養成ですら、言語技術の勉強を取り入れている時代です。体力だけではサッカーすらできない。キック力がどんなにあっても、 状況を見てどこへ、誰にキックするかが問題だからです。同じようにせっかく暗記した知識も、整理し、更新しつつ、論理的に展開することができなければ何の 役にも立ちません。

作文=「文章を書く」ということは、言葉に現実と論理をきちんと絡ませて物事を描写したり、説明したり、自分の意見を主張したりすることです。そ れは私たちの「コミュニケーションをしながら現実社会を生きる」ことや「学習」そのものと、あまりにも深く、そして密接に絡まっています。

これは、そう簡単には教えることのできない、そして、正解のない世界であり、これまでの細切れの知識伝授=教育という教師自身の教育観を根本から 変えないと立ち行かないことです。しかも、それなりの体系的なプログラムの下での訓練が必要です。安易すぎる学校の国語でも受験のテクニック国語でもな く、「生きるための=リテラシーとしての」国語教育を体系化しなければなりません。

未来の子供たちへ

未来の子どもたちは、これからもっと大変な時代の現実を、シリアスに、言葉と論理を使って生き抜いていかなければなりません。言葉が生きることと絡み合わないなら、言葉でどう未来を構築していくのでしょうか。

頭の良い子、優秀な子どもというのは、生まれつきのものではなく、以下のような4段階の言語の訓練を通して、結果として作られていくものです。

  1. 書き言葉を使い(=客観的視点で)
  2. 書き慣れ(=量をこなしつつ)
  3. 文章と発想の型をマスターすることを通して
  4. 「言葉で考える力」を養成する

国語専科教室のカリキュラムは、お子さまの発達段階を考慮し、上記の内容をきちんと教えるために考えられ体系化されています。おそらくは日本で初 めて、文科省の学習指導要領を全く無視して、思考と一体になったリテラシー教育としての国語教育を実現したものでもあるでしょう。

教室で学んだ生徒たちが、従来は蔑称であった「作文」という言葉の意味を、本来的で普遍的な「文章制作」に変えてくれることを願っています。



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