ゲームは“ごっこ遊び”の理想的な代替物か(高2・A君)

講評 木谷紗知子

なぜ、書くのか。

中高一貫の男子校に通うAくんは昨年の夏、幼稚園で実習をした。普段とはまったく違う風景。

「最近の園児はごっこあそびとかしないですねー」

暑い中、実習先から電車を乗り継ぎ、かなりの時間をかけて国語専科教室に来てくれたAくんは言った。

独自の視点を持っているから、Aくんの話はいつも面白い。それだけでよいと思う人もいるかもしれない。しかし、この教室では話すだけで終りにはしない。書いてもらう。

なぜ、ごっこ遊びをしないのか。代わりに何をしているのか。そして、しないままでいいのか。

自ら問いを立て、書いていく中で、Aくんの考えはしだいに深まっていった。それこそが書く目的の主要なものだと私は思う。

そして、この文章にはAくんの語り口が表れている。それが彼の文体ということなのだろう。

本文

『ゲームは“ごっこ遊び”の理想的な代替物か』
高2・A君

去年の夏、高校の総合学習の一環で幼稚園に実習に行く機会があった。実習と銘打ってはいるものの、男子高校生にできることなど限られている。トイレについていき、流したか確認する。お迎え待ちの子どもにビデオを見せつつ、部屋の後ろにポツンと座っている。割り当てられたそのような仕事をしながら、ひとつ気づいたことがあった。それは、私の幼稚園時代に比べて、“ごっこ遊び”を延々とやる子どもが少なくなっているのである。

十年前の幼稚園はといえば、“ごっこ遊び”に夢中になる園児達が公園や園庭で数多見られた。彼らは……いや、少し見栄を張った。“ぼくら”である。ぼくらは、園庭…ではなく「カントー地方」で選ばれた少年だった。そして、ポケモンマスターになるために、今日も私はピカチュウ(もも組のゆうきくん)と、ゼニガメ(うめ組のひろきくん)と、リザードン(さくら組のたかしくん)と共に、草むらからとびでてくる野生のポケモン(草むらに置かれた三輪車たち)と闘いながら、ゆうきくんとたかしくんを育て上げ、四天王であるうめ組のひろきくんA・B・C・D(人数が足りないので、一人だけ五役である。)を次々に倒すのだ。端から見れば確かに、周りに大量の三輪車が置かれた、古びた2.5メートルほどの滑り台を、数人の園児がキャーキャー言いながら上って下りてを二時間ほど繰り返しているだけなのだが、それでも私達にとってはまぎれも無い冒険物語だったのである。

ところが、現在の幼稚園ではこのような様子を見ることは珍しくなってきている。そもそも、大多数の幼稚園には本当に‘自由’な時間はあまりないのだ。遊ばせてもらえないというわけではなく、危険を回避しやすいように遊具や場所を指定されて遊ぶのだ。例えば、「ブロックを使って遊ぶ」「お庭で遊具で遊ぶ」といった形である。このように指定されるとなかなか“ごっこ遊び”はできない。なぜなら、“ごっこ遊び”には自由に使える時間と空間が必要だからだ。

幼稚園から解放された後の公園や家でも結果は同様である。しかし、そこでは時間や空間といったものに規制されるわけではなく、ゲームが“ごっこ遊び”の行く手を阻むのだ。実際、現在の家における遊具はほぼ「ゲームである。」と園児たちは自慢気に話してくれた。ここでいうゲームとは、wiiやPSPに代表される据え置き・携帯ゲーム機であり、ソフトはパズルや脳トレを除いた、主に主人公になりきるタイプを指す。

“ごっこ遊び”は子どもの遊戯界での地位をゲームに奪われてしまったのだろうか? 奪われたとしたらなぜだろうか?  そして、奪われたきりでいいのだろうか?

まず、第一に、“ごっこ遊び”の地位を奪ったのはゲームであるという仮定を検討する。これはほぼ間違いないといっていいだろう。園児たちに訊いてみてもゲームをしている子はほぼ全員であったし、この十年の間にゲームの勢いを脅かすような遊戯が現れたようには思えない。

第二に、“ごっこ遊び”がゲームに地位を奪われた理由を考える。大前提として〝ごっこ遊び”とゲームは遊戯としての性質が似通っているということがある。“ごっこ遊び”もゲームも仮想空間上の遊びである。“ごっこ遊び”は脳内での空想の中に自分を、ゲームは仮想空間内の主人公に自らを投影し、その状況を楽しむのである。いうなれば、頭の中で彼らはヒーローになるのだ。しかし、“ ごっこ遊び”とゲームでは遊戯としてのクオリティに大きな差がある。その差が取って代わられた理由なのだ。

まず、最初の差は前提となる仮想空間の出来である。かたや、幼い子供の限られた経験を基盤とし、拙い想像によって出現する脳内空間。かたや、映像技術の粋を集めて生まれる仮想空間である。前者と後者では、見た時に感じる現実感や迫力において確実に後者に軍配があがるだろう。

次に、遊びとしての競技性の有無である。「遊びは勝とうという意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ」とロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の序論で語った通り、遊戯に対して人は、勝敗がはっきりしているものや、秩序・規則があるものに魅力を感じる傾向にある。そこで両者を比べると、何十年もの経験とマーケティングをベースに一流のゲームデザイナーによって作られたゲームは、障害やゴールが一つのゲーム内にバランスよく散りばめられている。一方、“ごっこ遊び”には明確な終結点が無い。その上、秩序も規則も無い。園児たちはゲームにより魅力を感じざるを得ない。

最後に、飽きた後の話である。ゲームは、たとえそのゲームに飽きてしまっても、大量に他のソフトが用意されている。大量というのは、単に物理的に多いだけではない。大きく異なるゲームジャンルがいくつも用意され、それぞれ細かく性質の違うゲームがある。尚且つ、人気シリーズであればマイナーチェンジを繰り返したものも売られている。このように、変化を求めるところは改変され、継承すべき部分は継承した自分好みのゲームを簡単に得ることができる。 果たして、ここまで選択肢に富んだ想像のストックを持った園児はいるだろうか? いたとしても、決して多くはないだろう。

ここまで考えてくると、園児の遊ぶ上での欲望をすべて叶えたゲームは、“ごっこ遊び”の代替品どころか、“ごっこ遊び”を昇華させた理想的なものであるかのようにさえ思える。

そこで、第三の、“ごっこ遊び”は子供の遊戯界での地位をゲームに奪われて良いのか否か、ということを考える。

もし、ゲームが理想的な遊戯であるなら、わざわざ“ごっこ遊び”をさせる必要などなく、園児たちにゲームをさせ、今まで“ごっこ遊び”があった場所にそっくりゲームがはまれば済む話に思えるかもしれない。

しかし、ゲームでは養えないある能力を”ごっこ遊び”が育むと私は考えるのである。それは、他人と見えないビジョンを共有する力である。つまり、“ごっこ遊び”には遊ぶ子供たちにその意図はないにもかかわらず、学びとしての側面があるのだ。

例えば、何の変哲もない公園で、海の上の崖という設定で“ごっこ遊び”をするとする。果たして、崖の高さは何メートルなのか、波は高いのか、凪いでいるのか、サメのいる海なのか、海の色はきれいな青なのか、それとも不気味な深い青なのか。これらについて、各々の脳内で違うものを想像しているはずである。それらを互いに感じ合いながら、似たイメージに近づける作業をしなければ“ごっこ遊び”は遊べない。

ところが、ゲームでは、すでに様々なディテールが目に見える形で客観性をもって存在している。これではビジョンを共有する力は養われない。

この、他人とビジョンを共有する作業は園児たちの将来において、必ず行う必要が出てくる。例えば、学校の文化祭で模擬店をやるとしよう。それをやりきる為には、数々の障害がある。‘電気容量が足りない’とか‘予算内に収まりそうも無い’。果ては‘そもそも男子高校生の作ったクレープなどというものを人々は食べたいと思うのだろうか?’という疑問まで沸々と湧いてくるのだ。こういったことを将来の園児たちは、全員で乗り切らなくてはいけない。これらの問題の解決策を皆で出して乗り切る際に、先述のビジョンを共有する力が必要になるのである。大事なことは‘どのような模擬店をつくりあげるのか’というビジョンが明確で、全員がそれを把握できていることである。皆に同じクレープ屋が見えていれば、物事の優先順位も自ずと決まってくる。従って、無駄な会議を繰り広げて問題解決に延々と時間を費やす必要はなくなる。それどころか、店を始めてから起こる突発的な問題に対しても柔軟に対応できる。文化祭終了後の反省点も明確だ。ひいては、全体の成功につながるのである。

社会人になっても、仕事をする上で、他人とビジョンを共有する力は必須である。いわば、一生を左右する能力なのである。これを努力せずに鍛えられるということが、“ごっこ遊び”の優れた側面であったのだ。

私はゲーム否定派ではない。素晴らしいものであると思うし、実際に遊んでもいる。しかし、園児たちが“ごっこ遊び”をしなくなることを悲しむのは単なるノスタルジーではなく、前述の力が無くなることを憂えるからなのだ。人としての成長のために、“ごっこ遊び”は消えてはいけない存在なのである。



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