本当に相手のためになるボランティアをするには(高3・K君)

講評(講師:石塚 廉)

ある一つの判断を下す際に、異なる立場や、その判断による弊害を考慮にいれ、総合的な望ましさを模索していくことがクリティカル・シンキング=批判的な思考ですが、今回のK君の作文には、それがしっかりと実践されています。

そもそも彼の意見の根底には、ボランティアは良い面だけではなく活動の仕方によっては相手を傷つける可能性があり、「ボランティア」=良い行為というように価値観が固定化されてしまうことへの疑問があります。

文章を書く上で、書き進めては新たな疑問を得、立ち止まり考えては、書き進めるK君の姿勢からは、価値判断を行うことへの慎重さがうかがえます。そ れは「ボランティアをするにあたって」という二つの意味段落において、弊害を想定しながら議論を進める様子によく表れています。

刻々と変化を続ける被支援対象者とそれを取り巻く状況について、きちんと理解しなければ本当に相手のためになるボランティアはできない。以上のよう なK君の結論ですが、思考停止せずに考え続けること重要性は、ボランティアだけに限らず今後のK君のあまねく活動を支えるものになるでしょう。

本文

『本当に相手のためになるボランティアをするには』
高3・K君

相手を傷つけるかもしれないボランティア

道端で大荷物に苦難している老人を見た時、代わってその荷物を持ってあげる。地震などの自然災害で壊滅した地域に行き、がれきの撤去作業などの手伝 いをする。農作物の育てにくい土地に暮らす人たちに、その土地で栽培できる農作物と技術を教えに行く。今挙げたのは、ボランティアと呼ばれる活動の例であ る。規模の大きなものから小さなものまであるが、これらに共通するのは人のためを思い、人のために活動するという思いである。

困っている人たちを助けたい、その思いのもとで我々は手を差し伸べる。

だが、あなたは「小さな親切大きなお世話」という言葉を耳にしたことがあるだろうか。この言葉は文字通り、親切心がかえってあだとなることがあるということを示している。

世の中にはこちらが良かれと思ってやっていても、相手の為になっていないボランティアと言うものがあるということである。

ボランティアの恩恵をうける人にとっては、たとえそれが「大きなお世話」であったとしても、助けられている身でその事実を相手に伝えるのはかなり抵 抗があるだろう。ボランティアをする側にしてみれば、相手がそんなことを思っていることを露ほども知らずに手を差し伸べるのである。ボランティアをする側 が思いもよらないことで被支援者を傷つけていることが起きていることがある。

このような事態が起きうるボランティア活動。プロフェッショナルならまだしも、我々のような素人が手を出して良いものであるのであろうか。そもそも人を傷つけうるボランティアというものはこの世界に必要なのであろうか。

ボランティアの必要性

僕はこの問いかけに対して、ボランティアは必要なもので誰でも進んで参加してゆくべきものであると考えている。なぜなら我々の住まうこの社会は人と人との関係なしには成り立たないものであり、それゆえに人と人の助け合いなくしては成り立たないものであるからである。

ただし、ひとを傷つけることのない、より多くの人が幸せになれるボランティアには、広い視野と様々な視点を持ち、また先のことを考えることができる力が必要であると僕は考えている。そのためにどうすればよいのか、以下に論じたい。

ボランティアの定義

まず、ボランティアのことを論じるうえでボランティアとはどんなものであるかを知っておく必要がある。Wikipediaによるとボランティアと は、自発性、利他性、無償性、創造性に基づいた活動のことで、我々の暮らす地域や社会、また、日常生活の中の様々な課題の解決を目指しながら生活をより豊 かにしていくためのものである。ボランティア活動をする主な団体と言えば青年海外協力隊や、ピースボートなどが挙げられ、途上国での学校建設や、医療関係 の手伝いなどの活動をする。

ボランティアをするにあたって―どのように支援対象を絞るのか―

全てのボランティアが役に立っているわけではなく、中には初めにも述べたような悪い結果を伴うボランティアもある。それを防ぐためにはどうしたらよいのであろうか。

第一に、ボランティアによる支援をするにあたって、どのようにして支援をする対象を絞るのかを考える必要がある。ボランティアをする相手といっても その規模、内容を指定しなければ数えられないほどいる。誰かを支援すれば、支援したということで、周りとの格差が生まれる。その格差をなくすためにその周 りの人たちに対しても支援を行っていく必要がある。その人たちとその周りの人たちとの格差をなくすために……と支援対象の規模は果てしなく広がる。支援に よる格差をなくす、といういたちごっこに陥ってしまう。支援の輪を広げだすときりがないので、むしろ支援はせずに見守っていたほうがかれらためになるので はないかという考えに至らなくもない。

確かに、世界中のすべての人を幸せにすることはできない。世の中には誰か一人が幸せなるために、他人の幸福を犠牲にしなければならないような場合も あるのだ。だが、それを理由にボランティアをやめるのではなく、たとえ全員が心からの幸せを得ることが無理でも、そのような状態に少しでも現状を近づける ためにボランティアの活動によって自力で不幸の中から抜け出せない人をできるだけ減らしていくことが我々のすべきことであるのだ。

したがって支援対象を絞るに当たり、理想状態の世界に少しでも早く近づくことを目標に掲げ、無限に広がりうる支援の輪を、支援するべきものに対して事態の深刻さや対処の必要性などに基づいた優先順位をつけて支援をしてゆくという方法をとるのが望ましい。

ボランティアをするにあたって―支援相手を理解すること―

第二に、本当に相手のためになるボランティアをする為には、被支援者達自身について、また彼らの住む国・地域、その経済状況、宗教・文化・慣習などの内情をよく知っておき、相手のことをよく理解しておくことが重要である。

そこで、相手への理解が足りないがゆえに結果として被支援者を苦しめる例を挙げてみる。たとえば、産業があまり発達していない地域に古着を大量に 送ったとする。その地域の人達は地元で作られた服を買うより、送られてきた無償の古着を着ることを選ぶだろう。その地域の皆が地元で作られた服ではなく送 られてきた古着を選ぶので、その地域の衣類の価格がどんどん下がってゆき、結果その地域の繊維工業はストップしてしまう。産業発展のカギである繊維工業が 発展しないと、その後に軽工業から重工業となる発展が望めなくなってしまい、産業先進国への道が閉ざされてしまう。

また、理解の欠如による弊害の別の例として、支援されることに甘えて被支援者が働かなくなってしまうという事態も予想できる。たとえば、仕事に出て も満足に食べ物を買えないような賃金しか得られない場合などは、何もせずとも食事が食べられる被支援生活に甘えて、働くことをやめてしまうのである。この ことが支援を受けていない人々の不満を買い、確執を生む要因となることもある。

このように支援相手のバックグラウンドをわかっていないことが、長いスパンで見たときに相手を苦しめることとなる。相手への理解が良いボランティア をするときに必要不可欠な要素であるのだ。前者の弊害は支援相手の置かれている環境が今どのようになっているのかということを事前に良く調べておくこと で、また後者の弊害は、「支援」はあくまでも支えであるというスタンスで、被支援者が自立できる最少の支援をおこなって行くようにするということで解決で きる。

だが、たとえ支援開始時に相手のことをよく理解し、今挙げたような問題が起こらないように気を付けていたとしても、長く続けているうちに相手も自分 も少しずつ取り巻く環境が変わってくる。その中でお互い支援が当たり前となってしまい見えなくなることも出てくる。同じことを何も考えずに続けていくので はなく、常に周りを見回し、相手を見つめ変化に対応できるようにするという姿勢が必要である。

反論

一方、社会的な支援を必要とする人びとがいることを理解しつつも、自分自身に利益が来るわけではないのに、何を好き好んで困っている人たちに手を差 し伸べるのかわからないという人がいるだろう。そのような人は、政府の福祉政策であるとか、企業の活動の一部としてそれは行えばよく、「ボランティア」と いう活動など必要ないのではないかと考えるだろう。

この考えをもっている人はボランティアというものについての根本的な思い違いをしている。そもそもVOLUNTEERという言葉は「志願者、進んで 事に当たる」といった意味を持ち、定義にあるようにボランティアにはその前提として自発性が含まれているのである。つまり、ボランティアは「しなければな らない」といった類の活動ではないので、上に挙げたような疑問自体がすでに間違っているのである。政府の政策があろうとなかろうと、本人の自発性に基づく 活動がボランティアなのである。

結論

ここまで挙げたように、支援する相手への深い理解がなされていない状況下でのボランティアは支援相手を傷つける可能性がある。だが、支援する相手や その具体的な内容をよく考え、理解してのボランティアは実際に相手のためになるのである。我々の生きるこの社会をよりよい、過ごしやすいものとするために もボランティアは必要で、積極性を持って参加していくべきである。

参考文献

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