『崖の上のポニョ』に見る死への母性的アプローチ(高1・T君)

講評と執筆過程(講師:伊藤雄二郎)

崖の上のポニョ [DVD]

本稿は、国語専科教室の中学3年生の男子生徒がちょうど15歳になった日に、『崖の上のポニョ』を見てただならぬ深さを感じ取り、それをきっかけに 執筆がスタートし、15時間程度の時間をかけて完成したものです。もともとは、中学の卒業論文として、2010年の2月から週1回の90分の授業時間を利 用して執筆を開始しましたが、その間何度か中断したため完成した時には5月になり、完成時には中学生だった生徒が高校生になっていました。

中学生の卒論としては締め切りをオーバーしてしまったことになりますが、生徒は、15歳になった日にこの論文の構想のきっかけをつかみ、完成した今もまだ15歳です。そしてこの小論文の原案はほぼ、15歳の生徒自身が考えたものです。

今回、論文の形に整えるために講師が担った役割は、生徒自身が発案した断片的な洞察やアイディアを読みやすい文章に構成する作業でした。『崖の上 のポニョ』という作品に対する生徒の鑑賞力は確かなもので、講師が見落としているような細かいシーンも的確に観察していました。鑑賞力という面において は、生徒の能力は平均的な大人以上と言えるかもしれません。

しかしながら、そうした優れた鑑賞力によって得た洞察を言語化する過程で生徒が苦しんだのは、個々の洞察のつながりを体系的に言語化する点でし た。作品に対する彼の洞察は大人顔負けの優れたものでしたが、それらは断片的でそれぞれの洞察に相互のつながりが欠けていたため、生徒が独力で自らの洞察 を文章化するのは困難でした。

そこで二人で話し合い共作という形での執筆のスタイルを取ることにしました。生徒が自分のアイディアを文章化するのに苦しんでいる時、講師が生徒 の口にするアイディアや洞察を、わかりやすい書き言葉に翻訳し、それを生徒に確認してもらい合意を得られた場合、先に進むという形で作業が進んでいきまし た。講師はあくまでも生徒が自分のアイディアを文章化するのに苦しんでいる際に生徒のアイディアを「翻訳する」ことに徹し、生徒の側は講師の提示したセン テンスを修正したり意見をさしはさんだりという、共同作業の形で本稿を完成させたわけです。

したがって生徒の書いた文章を講師が添削して完成させたといった文章とはかなり異なった経緯を取ったもので、当初の合意の通り「共同作業」という のが適切と思われます。本稿の原案は生徒が提案し、講師は主にその構成を引き受けたというのがこの共同作業のわかりやすい表現だと思います。

ただし文章の後半の、「死を生きる・・・死への母性的アプローチ」の記述と「第三の領域」の項目における第三の領域というコンセプトは、生徒の洞 察を適切な文脈に位置づける目的で講師が書き加えたものです。その際作品の随所にちりばめられた「3」という数字の暗示的な働きに着目したのは、生徒自身 です。また「命=死」といった15歳の生徒が口にしたにしては、いささか成熟し過ぎた表現も文章中に散見されますが、その表現のほとんども生徒自身が口に した言葉です。

確かなことは、生徒も講師もお互いの存在なくしてはこの論文を完成させることはできなかったということです。この論文は「共同作業」の産物なのです。

本文

『崖の上のポニョ』に見る死への母性的アプローチ・・・15歳の記念に
高1・T君
Supported by 伊藤雄二郎

『崖の上のポニョ』と死

『崖の上のポニョ』はこれまでの宮崎作品の中ではとりわけ異彩を放つ作品である。表向きのあらすじは、人魚「ポニョ」が人間の男の子に恋をするという物 語である。この作品はのんきなテーマソングも相まって単なる子ども向けのアニメ映画だと思われているようであるが、実はこの作品のテーマは一般に思われて いるよりもずっと重い。実際に映画を見た人の中にはこの作品に漂うそこはかとない「狂気」を感じた人もいたのではなかろうか? ファンシーでかわいらしい 「ポニョ」に隠されたテーマ・・・それは「死」である。より正確には「生と死」という対立図式を乗り越える第三の可能性の提示である。本論ではそのことを 明らかにしていきたい。

宮崎作品における死の位置づけ

もちろんこれまでの宮崎作品にも死の影を感じさせる作品はあった。『風の谷のナウシカ』の腐海のように作品の一部に「死」の空間が存在するケースはその わかりやすい例と言える。『となりのトトロ』に登場する姉妹が実はこの世に生きていないのではないかという浅薄な質問を発するジャーナリストがいたのも宮 崎作品に漂う死のイメージと無関係ではない。だが「生と死」というような単純な対立図式で語れるような問題なら敢えて映像という表現形式を選ぶ必要はな い。宮崎作品においては、死は生の対立軸に位置づけられてなどいない。そのことがこれまでになく明らかに表現されているのが、『崖の上のポニョ』という作 品なのである。

『崖の上のポニョ』における逆転現象

宮崎作品において死は重要なテーマではあるが、これまでの宮崎作品が一貫して問い続けてきたのはむしろ生きることの本質であった。どの作品の登場人物も 死の影を感じながらも生きることを選び生を賛美する姿勢を崩さなかった。しかし「ポニョ」ではそれが逆転し「死」そのものをテーマに据えている。「ポ ニョ」という作品における逆転はそれだけにとどまらない。

生きのびるための力

たとえば『もののけ姫』は、人類が鉄を発明し自分たちの「力」を意識し、そこから物語が展開する。「力」を持った人間たちは自然の秩序をかき乱す存在で あった。このモチーフは『風の谷のナウシカ』に顕著に現れるが『紅の豚』における主人公が豚になったきっかけや、『天空の城ラピュタ』におけるラピュタの テクノロジーなどにも内包されたテーマであった。これまでの宮崎作品の登場人物たちは科学力であれ魔法のちからであれ、力を誤用したことにより、侵しては ならない領域に足を踏み入れ、周囲の環境の秩序をかき乱しその代償を受け苦悩する存在として位置づけられていた。重要なことは、彼らの関心は一貫して生き ることに向けられており、「力」は過酷な状況の中で闘う彼らの拠り所だったということである。

脱力系のヒロインの秘密

ところが「ポニョ」においては、異界の住人であるポニョが人間界に分け入り、天真爛漫に魔法という「ありえない」力を発揮し人間世界の秩序を変えてしま う。古代の魚が蘇ったり大正時代の人たちが現代に蘇ったりしたのもポニョの出現と呼応している。かわいらしく悪意のかけらもないポニョは実は本来の生命の システムを狂わせる危険な存在だったのである。ところが当のポニョ自身は自分が人間界にもたらす危険性を自覚してなどいない。ポニョは自らの力に無自覚で あきれるほど脱力している。これまでの宮崎作品にはない、脱力した印象は、作品内における「力」の位置づけがこれまでの作品とまったく異なっているためで ある。「ポニョ」における舞台は、これまでのような「力」の論理が通用しない世界なのである。それは父性と母性の問題とも関わってくるテーマである。

母性と父性

この作品における父親像は、自らの力を「変化を押しとどめる」ために用いようとする存在として描かれている。フジモトが古代の海を蘇らせようとしたり、 娘を魚に戻そうとしたり必死になるシーンからもそのことは明らかである。逆に母親たちは「変化を受け入れる」存在として描かれている。宗介の母が謎の人面 魚をあっさり受け入れた場面。あるいは、グランマンマーレが娘を人に変化させるのを了承する場面にこうしたモチーフが表れている。この作品においては女性 たちの変化を受け入れる姿勢は、彼女たちに備わっている母性と関連づけられている。

母性の象徴としての海

ポニョの物語の大半は海を舞台に展開される。海は生み、育むという母性的性質と関連づけられる事が多い。「海」という文字に「母」という文字が含まれて いることからも、日本人が海に母性を託してきた背景はうかがわれる。「海」を舞台とする本作品においても宗介の母であるリサも、ポニョの母のグランマン マーレも強く描かれ、父親像はキャラクターとしてどこか弱く描かれているのは無理からぬことかもしれない。ある意味『崖の上のポニョ』の物語は、父性をイ メージさせる山を舞台に、闘争を軸に展開する『もののけ姫』の物語と対を成しているとも言える。

ブリュンヒルデに託された使命

ポニョの住む「海(うみ)」の世界は「生み」の世界であり、すべての生命の起源であり、すべての生命を育む存在である。「海」は文字通りあらゆる生物種 の「産み」の親と言える。しかし海は生命を生み、育むだけの存在ではない。ポニョの海の世界におけるブリュンヒルデという名前にも、そのことは表れてい る。ポニョがフジモトから与えられたこの名前は、戦死した兵を導くケルトの女神の名前なのだ。この名前からもポニョが本来いかなる役割を期待されていたか が伺われる。我々ほ乳類にとって生命の源である海の深層に分け入る行為は、死につながる。海はあらゆる生を司るが、それは同時にあらゆる死を司るというこ とでもある。海の世界とは、命(=死)と深い関わりと持つ世界なのだ。ブリュンヒルデという名を与えられたポニョは生命と死の双方に関わる両義的存在と言 える。

死のイメージの変化

老婆たちの中で一番生きることに執着していたトキばあさんが、人面魚であるポニョを見て、この世に厄災をもたらすとして怯えたのは当然のことである。死 は人間にとって怖しく不可思議なものである。ポニョの存在は、この怖しく不可思議なものそのものであり、ポニョの出現は、命(=死)の化身の出現そのもの であった。ところが「ポニョ」のストーリーが展開するにつれて、命(=死)の意味合いが微妙に変化していくのである。注目すべきことはポニョの出現によっ て展開されるストーリーには、命(=死)の物語につきものの禍々しさが感じられないことである。

『ハウルの動く城』に見る「死」のイメージの変化

実はこの「死」のイメージの変化は、『ハウルの動く城』あたりから始まっていた。「ハウル」に登場する魔女は自分自身に年老いることのない魔法をかけて 外見をごまかしているが、内心では「死」を怖れその醜い本質を隠し切れていない。彼女の関心はいかに「若さ」を保ったままで生き続けるかにあった。逆にソ フィは年老いる魔法をかけられても死を怖れない純粋な若さを保っている。このことは宮崎作品の焦点が生きるための闘いから死との闘いへ、さらに死の受容へ と移って来たことを示している。『ハウルの動く城』あたりからスタートしたこのゆらぎは『ポニョ』に至って一層明確になってきている。HAYAOはまだ進 化を続けていると言えるのではないだろうか。

『崖の上のポニョ』における死

ポニョにおいては死が日常の延長のような形で淡々と描かれている。登場人物たちはもはや生きるために闘おうとしてはいない。「ラストの間近でのおばあさ んの「あの世もいいわね」というセリフは、作者が思わず本音を漏らしてしまったかのように、うっかりすると聞きのがしてしまうような形で発せられる。

死を生きる・・・死への母性的アプローチ

このセリフは一体どこを足場にして発せられたのか? 生の側か、死の側か? 凡庸な精神はついそのような質問を発したくなるものであるが、『ポニョ』を 体験した精神はそのような質問が無意味であることを知っている。『崖の上のポニョ』に登場する女性たちは、もはや力を行使して死と闘おうとしていない。逆 に彼女たちは死を自らの内に受け入れる。彼女たちは死を包み込み、それを生きる。老婆のセリフは死を包み込むように呟かれる。もはや死は彼女たちの外部に はいない。これは『ハウル・・・』における、外部に存在する死を遠ざけようと抗う死への闘争的アプローチとは根本的に異なっている。

第三の領域

『崖の上のポニョ』という作品に目を凝らし続けている内に自ずと浮かび上がる領域。それは生にも死にも属さない第三の領域とも言える。作品世界において 明確な場を与えられていないこの領域こそがこの作品の主要な舞台と言える。作品世界において、ポニョは三度眠りにつき、変身のレベルも三段階に分かれてい る。こうした仕掛けの全てが、私たちにとって認識しづらい第三の領域を暗示しているようにも思えてくる。もしかしてリサの運転する車のナンバーが 「333」であることも、偶然ではないのかもしれない。このような危ういバランスの上に成立する世界を語ろうとする作品に与えられたタイトルが「海から来 たポニョ」といった落ち着いたものにならないのも、ごく自然なことに思える。『崖の上のポニョ』というタイトルそれ自体も作品に仕掛けられた謎のひとつに 思えてくる。この作品に仕掛けられた謎を解き明かすには、私たちの側の認識の枠組みをいったん解体し、これまで視野に入らなかった何かを見ようとする意志 を発動させる必要があるのだろう。

※本人の希望により、一部文章を訂正いたしました(6/6)

※作品のコピー・無断転載を禁止します



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