感想文『ノルウェイの森』 (高1・Tさん)

講評(講師:伊藤雄二郎)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

高校1年生のTさんから読書感想文の本について相談をうけたのは8月の夏休み中のことでした。彼女は学校から渡された本のリストを見せてくれまし た。感想文を書く本はそのリストの中から選ぶように指定されているとのこと。その中から私が特に推薦したのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と遠藤周作の 『沈黙』でした。どちらも人間にとって本質的なテーマを扱った作品で読めば読むほどに深い名作です。

私はある日の授業で『銀河鉄道の夜』の冒頭部分を細かく分析し彼女に解説しました。学校の授業で、ジョバンニとカンパネルラが乳の流れたようなも のが銀河と知っていながら答えられなかったのはなぜか? それがジョバンニがお母さんに届ける「牛乳」とどう関わってくるのか? ジョバンニが働く活版印 刷所での会話はなぜ冷たいのか? 活版印刷所でジョバンニが受け取る「銀貨」は物語の中でどのような役割を果たしているのか? なぜ列車が物語りの舞台と して選ばれたのか? この物語の冒頭のシーンはとりわけ精緻に描き混まれていて、科学、宗教、教育、経済、家族といった様々なコードが入り乱れ、読めば読 むほど深みにはまっていきます。

高校生の彼女には、一度そのような物語とのつきあいを体験してもらいたかったのですが、その過程で彼女は『銀河鉄道の夜』という物語が一見童話の体裁を取っていながら一筋縄ではいかない作品だということに気づいてしまったようです。

もうひとつの『沈黙』にしてもその主題をきちんと把握するためには、私たちは宗教というテーマに向きあわなければならずこれもまた一筋縄ではいき ません。神道、仏教、儒教が絡み合う日本の精神的土壌にキリスト教的世界観が根付くのを阻む何かがあるとすればその正体は何なのか? そのような問いかけ に自分なりの回答をきちんと提示できる人は大人でも限られてくるのではないでしょうか?

そこである種の逃げ道として用意したのが、『ノルウエイの森』でした。現代の高校生にとっては、この作品が生と死という人間にとっての本質的な テーマとある意味手軽に関われる素材であることは明白でした。彼女の学校の先生もそのあたりを見越してこの作品をリストに入れておいたのかもしれません。 こういう時のために講師はこの本を自宅から持参して小中学生の目に触れないように棚にしまってありました。 最終的な選択は彼女自身に任せましたが、やはり彼女は『ノルウエイの森』を選びました。結果は見ての通り。彼女は『ノルウエイの森』を題材にシンプルな言 葉で人間にとっての本質的なテーマを鋭く抉っていると思います。

こうした体験を足がかりにいずれ彼女には『銀河鉄道の夜』や『沈黙』の深みに足を踏み入れてほしいと思います。

本文

『「ノルウエイの森」から死について』

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

これは、この物語の主人公であるワタナベ君の言葉である。彼は高校2年生のときに、親友だったキズキ君が自殺してしまい、死についてこう考えるようになった。

私は、最初はこの言葉を理解することができなかった。なぜなら、私は死と生を対極のものとして考えてきたからである。私は身近にいる人、大切な人 の突然の死を経験したことがない。もし明日、家族や友人、大切な人がいなくなってしまったらということも、あまり考えたことがなかった。人間はいつか必ず 死ぬものだという考えを持っていても、それはずっと先の話だと思っていたのである。

そのため、ワタナベ君のこの言葉に私は戸惑った。常に死が生の一部になっているということは、この文章を書いている私も、今死の隣にいることにな る。生きているのに、私たちはどんなところで、何をしていても、死の横をはなれることはできないのだ。それほど、人間は弱く儚いものなのだと、私はワタナ ベ君の言葉に始まり、この物語全体を通して感じることになった。

まず、この物語に登場する人々は、皆暗い過去を背負い、常に生と死の間をさまよっているように感じられる。例えば、キズキ君の恋人で、ワタナベ君 が好意を抱くようになる直子という女性がいる。ワタナベ君とキズキ君と直子の三人は仲が良かったのだが、キズキ君が自殺した後は、ワタナベ君と直子は会う ことがなくなった。そして一年後、二人は偶然再会するがそのとき直子は精神を病んでいて、時々気持ちをうまく伝えられないでいたり、突然泣き始めたりする ようになってしまい、最終的には自ら命を絶ってしまうのである。

彼女はこの物語の中で、常に死のにおいを漂わせながら生きているように見えた。彼女の姉も彼女が幼い頃に自殺していて、彼女は姉とキズキ君という 二人の大切な人を突然失ったことで、生と死が隣り合わせにあることを最も痛切に感じていたのではないかと思う。そして精神を病んだまま不器用に生きた彼女 の様子は、人間のもろく崩れやすい部分をもっとも表現していたように感じられた。

この他にも、何人もの人が亡くなっていくのだが、亡くなった人物のほとんどが自殺による死だということも、そこまで追い込まれた人間の苦しみを表現しているように思った。

次に、この物語には病院や療養施設など、人の死や心を扱う施設が出てくる。

例えば、精神を病んだ直子が療養する阿美療という施設がある。ここは外界との関係を絶ち、同じように精神を病んでしまった人々と一緒に寮に住み、運動をしたり農業をしたりして健康的な生活を送りながら療養する場所だ。

私はこのシーンを読んだときに、阿美寮はまるで天国のようなところだと思った。外界との関わりのないここは言わば異空間のようなものであり、外で の辛く嫌な思いから守られ健康的な生活ができる。この異空間と外の世界は天国と地獄ほどの差があるかもしれない。それほど快適な空間であるため、阿美寮に 入った人はつらい経験をするかもしれない外へなかなか出ることができない。私はこのような場面にも人の弱さが表れているのかもしれないと感じた。

また、ワタナベ君と彼の友人である緑という女性が病院を訪れるシーンもある。そこには緑の父親が脳腫瘍で入院しているのだが、彼もしばらくして亡 くなってしまう。私は彼が亡くなることで、病院という場が生と死の狭間に建っているものであることをより強く印象づけられた。このように『ノルウエイの 森』の全体には生と死が細かく描かれている。

私はこの文章の最初で、「死は生の一部である」ということが最初のうち理解することが出来なかったと書いたが、この物語を最後まで読み終えてその ことが少し理解できたような気がした。死は神様が勝手に与えてくれるものではなくて、自分たちが作り出すものなのかもしれない。どんなところにも「死」は 存在しており、それを使うか使わないかは自分次第なのである。

この物語りの中でワタナベ君はそれを使うことはなかったが、直子やキズキ君はそれに手を伸ばしてしまった。これは物語りの中だけでなく、現実にも 確実に起こっていることなのだ。だから『ノルウエイの森』を読んで、私は死を含んだ生を生きていることを感じ続けようと思った。そしてかけがえのない一度 きりの生を生きている人の気持ちを今まで以上に考え、感じ、いろいろな人と接して行きたいと強く思った。

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