吉田真澄 「ホンのつぶやき」(第1回)

第1回 それぞれがあるべき幸福

低学年の頃は天衣無縫ともいうべき闊達さを見せてくれたMさんも、受験を迎える頃になると、時折、憂いを含む大人びた表情をみせるようになった。それまでは、とかく読書は後回しで、気負わずに読める短編集などに手が伸びがちの彼女だったが、この頃から、精力的に古典もの―しかも長編―を読み進むようにもなってきていた。

小学校1年生の入室時から、気に入った本は何度でも繰り返し読む、というのが彼女の持ち味。しかし、生活が慌しくなったせいか、それも頻繁ではなくなっていた当時、この本だけは、何度も自宅に持ち帰っていたのを印象深く覚えている。全篇を繰り返し読むほどの時間の余裕は、おそらく無かったはずで、一度読み通したあとは、その時々、気になる箇所だけを拾い読みしていたのではと推測する。

「この本を読むと、私も絶対幸せになれるんだ、と思える」とは彼女がふともらした感想だが、これこそ、作者ヨハンナ・スピリが読者に最も訴えたかったことなのではないだろうか。

大自然の恵みあふれるアルムの山で暮らす少女とその周辺の人々を描いた『ハイジ』。物語全体を貫くのはキリスト教の深い信仰であるが、それは、主人公の少女自身が持つ幸せになろうとする無意識の力―幼い人たちなら誰しもが持っている―とも静かに重なっていく。多くの人生を好転させていくその力は、あくまでも、それぞれがあるべき幸福へと回帰する姿であって、奇跡や僥倖とは異質なものだ。以下は物語の中でひと際印象的なハイジの言葉である。

「待っていればいいのよ。
神さまは、ご承知になっていて、やがてしあわせをあたえてくださる―こう思っていればいいの。
そうして、すこしがまんをして、逃げ出さないようにしているの。そうしていさえすれば、
いつかは、なにもかも一ぺんに、わたしたちにとっていちばんいいようになるわ」
『ハイジ』竹山道雄 訳(岩波少年文庫)

更に、もう一つ、物語を支える大きな柱となっているのが、アルプスの雄大な自然とその恩恵である。病弱な車椅子の少女クララが歩けるようになるエピソードは、あまりにも有名であるが、空気、草や木、そして日の光が、この土地を訪れる全ての人の心と体を穏やかに癒していく。

作者が愛していたというゲーテの言葉――「幸運はだれに一ばん美しいしゅろの枝をさしのべるだろうか。喜んで事をなし、なした事を喜ぶ人に」―― で謳われた人生観は、物語『ハイジ』の中に万全と息づいている。“喜んで事をなし、なした事を喜べる”人を目指した作者の前向きな楽観性は、登場人物たちの人生の行く手を明るく照らし続ける。そして、読者である多くの子どもたちの未来さえも――。

件のMさんは、その後無事志望校に合格し、現在、中学生活を謳歌している。今後もこの物語が、彼女の助けとなってくれるにちがいない。

追伸・・・本文は『ハイジ』竹山道雄 訳(岩波少年文庫)から抜粋した。現在、この訳者による本は絶版となっているが、原作に忠実で甘ったるくない清清しいこの訳文は私の一番のお気に入りである。興味のある方は古本屋でお探しになってみてください。

本紹介

今回紹介した竹山道雄訳の『ハイジ』(岩波少年文庫)は、現在絶版となっております。

福音館書店などから刊行されております『ハイジ』は、今回紹介されている訳者の手によるものではありませんが、比較的手に入りやすくなっております。

吉田真澄 プロフィール

大学卒業後、児童書出版、販売業に従事。国語専科教室の講師となってからは、子どもたちが読む本の質と国語力の関係を追究。読書指導の重要性を訴え続けている。他に、雑誌への執筆、子どもと本に関する講演活動も行う。共著に『子どもの才能は国語で伸びる』(エクスナレッジ)』などがある。



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